文書館開館30周年記念企画展 戦後70年、文書でたどる太平洋戦争と北海道
ごあいさつ
今年は太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結から70年の節目の年です。
戦争を体験し語れる世代が少なくなってきています。そうした中にあって、歴史資料は当時のことを教えてくれる力を持っています。
本展では、主に北海道立文書館が所蔵する資料を使い、北海道という地域や道民のくらしに焦点をあてて、戦争とその時代を振り返ります。
この展示会をきっかけに、戦争がいかに人々のくらしをこわすかを再確認し、二度と戦争はしないという気持ちを新たにしていただければ幸いです。
2015年7月
北海道立文書館長 寺嶋 克仁
内容
戦争の足音
日本は、大正4(1915)年の対華21か条要求などにより、中国東北部の満州と東部内蒙古に鉄道・鉱山・商租権などの権益を得ました(満蒙特殊権益)。
反日の気運が高まると、権益が失われるのを恐れ、1931(昭和6)年、柳条湖事件を起こし(満州事変の始まり)、翌年、満州国を建国させました。
国民は、事件が日本側の謀略であることを知らされなかったため、一連の動きを日本の国益を守るものとして熱狂的に支持しました。
1936(昭和11)年に陸軍特別大演習で来道した天皇を道民は熱烈に歓迎しましたし、翌年に日中戦争に突入した際も、短期決戦で日本が勝利すると信じ、戦勝を行列をなして祝うなど、楽観ムードでした。
しかしそうした明るさの裏で、正しい情報を求め思ったことを言える権利が、政府・軍部の権力や、民衆自身の雰囲気により、抑制されていきました。
- 01.上海陥落を祝う狩太村(現ニセコ町)での提灯行列(複製) 1937(昭和12)年 北海道庁編『支那事変銃後後援誌 第1巻』
- 02.漢口陥落を祝う北海道庁庁舎前での旗行列(複製) 1938(昭和13)年 北海道庁編『支那事変銃後後援誌 第2巻』
- 03.米国・英国に対する宣戦布告の詔書に読みや意味を補ってやさしくしたもの(複製) 1941(昭和16)年 当館所蔵A7-1/1719 北海道庁長官官房秘書課『儀式関係書類 昭和十一年以降』
- 04.祝賀ムードを示す特売チラシ 1932(昭和7)年 当館所蔵 B1-2/1840 羽毛工業合資会社『創業一周年大東京祝賀満州国家承認記念特価大売出し』(柳田家資料)
- 05.札幌市各小学校旗行列(複製) 1936(昭和11)年 北海道庁編『昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帳』
- 06.提灯行列(複製) 1936(昭和11)年 北海道庁編『昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帳』
- 07.選挙関係集会言論取締要綱 1937(昭和12)年 『北海道庁特別高等課関係資料』所収
- 08.新体制解説 北海タイムス社編、発行、昭和15年 当館所蔵
- 09.興亜の大業を目指して 大政翼賛会東亜局長・永井柳太郎述、大政翼賛会宣伝部発行昭和16年 当館所蔵
- 10.翼賛運動提要 大政翼賛会北海道支部編、発行 昭和16年 当館所蔵
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北海道から満州へ
満州事変(1931=昭和6年)の後、関東軍や拓務省、のちに内閣の政策により、満州に農業移民集団が送り出され、終戦までに合計27万人余といわれる人々が移住しました。移民の構成は、土地を求める農家の二・三男が中心でした。
出身地の農法は満州の気候風土に合わず、経営はなかなか安定しませんでした。そこで、日中戦争開戦後の1938(昭和13)年以降、北海道農法が導入されることとなりました。北海道農法が満州に適合することを証明するため、また他の農家を指導するため、北海道からは多くの篤農家や農業技術者が満州に渡りました。
- 11.「満州国」の位置と大きさ 国土地理院ホームページ地図に「満洲農業移民入植図」(『満洲農業移民概況』、昭和11年刊 所収)を合成(加工:当館)
- 12.北海道出身の満蒙開拓青少年義勇軍の少年(複製) 1938~39(昭和13~14)年 北海道新聞社所蔵
- 13.満州国農業技術基幹員委託訓練生研究報告 1944(昭和19)〔年度〕 当館所蔵 A7-3/644 北海道農業試験場『満州国農業技術基幹員委託訓練生研究報告 昭和十九年度』
- 14.二宮満拓総裁の北海道視察記 満州開拓地と北海道農業 古沢常次編、満州拓植公社発行、昭和16年
- 15.満州開拓と北海道農業 松野伝著、生活社発行、昭和16年
- 16.「開拓団」への補充員に応募した人の銓(せん)衡(こう)調書(複製) 当館所蔵 A7-1/1677 北海道庁内政部社会課『海外移植民(一)外二目合冊 昭和十八年』
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戦時下のくらしと労働
戦時下、国民には「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をスローガンとする精神的統一が求められ、戦争遂行のためにあらゆる統制に耐えることが当然の義務となりました。北海道では、ことあるごとに「屯田兵魂」が語られ、強固な精神力が鼓舞されます。
一方、働き盛りの男子が戦場に送られることによる労働力不足を補うため、軍需産業への職業転換が強制されたり、女子や学徒の動員が強化されました。加えて、1939(昭和14)年からは朝鮮人の移入が開始され、労働力不足がさらに深刻化する戦争末期には、中国人も含めた強制連行によって、道内の炭鉱や土木事業の維持が図られました。
- 17.戦時の心構えを説く回覧用ちらし(複製)1943(昭和18)年 当館所蔵 大政翼賛会北海道支部編『隣組の皆様へ』
- 18.国債購入を勧めるリーフレット(複製) 1941(昭和16)年 当館所蔵 A7-1/1321 北海道庁総務部会計課『地方費積立金出納証憑』所収
- 19.戦時貯蓄債券 1943(昭和18)年 当館所蔵 B66/832 『戦時貯蓄債券』(笹原家文書)
- 20.旅行制限のちらし 1944(昭和19)年頃 当館所蔵 A7-2/693 北海道庁宗谷支庁総務課 『職員進退』所収
- 21.特高関係要警戒人物一覧簿(複製) 1936(昭和11)年 当館所蔵 北海道庁警察部特高課 編
- 22.配給券の割り当てノート 1943(昭和18)年 当館所蔵 B35/237 『配給券及物品割当之控』(南弥太郎文書)
- 23.石炭増産 長官激励の辞(複製) 1943(昭和18)年頃 当館所蔵 A7-1/1738 北海道庁長官官房秘書課『長官訓示祝辞弔辞綴』
- 24.学徒勤労奉仕隊の開墾作業(複製) 1942(昭和17)年 原本所蔵 北海道博物館
- 25.駅貨物の勤労奉仕に動員された婦人会々員(複製) 1941(昭和16)年 室蘭市役所編『新編室蘭市史』
- 26.中国人労働者の移入計画 1944(昭和19)年 当館所蔵 A7-1/1695 北海道庁内政部庶務課『参事会関係綴』
- 27.軍需産業への転業のすすめ 1943(昭和18)年 産業経済新聞社札幌支局編『転業体験者の職場報告集』
17. 20.
恐れていた空襲
航空機が急速に発達した近代戦争では、空からの攻撃にいかに備えるかが課題となり、各地で軍民あげての防空訓練が繰り返されるようになりました。
1944(昭和19)年秋、恐れていた本土への空襲が始まります。北海道への空襲は、翌45年7月14日・15日に集中的に行われ、軍需工場のあった室蘭や道内各都市、青函連絡船などがあいついで攻撃を受けました。わずか2日間に、陸上と周辺海域あわせて3,000人近い死者を出したといわれています。
- 28.北海道防空演習ポスター 1935(昭和10)年 当館所蔵 北海道庁『北海道防空演習』
- 29.防火訓練(複製) 1942(昭和17)年 原本所蔵 北海道博物館
- 30.防毒マスクが掲載された警防用品カタログ 1939(昭和14)年 当館所蔵 B0-146/3 『警防団経理関係書類』(古平警防団文書)
- 31.毒ガス処理マニュアル 1941(昭和16)年 当館所蔵 北海道庁警防課編『警防団員服務規程』
- 32.防空監視隊服務綱領 1941(昭和16)年頃 当館所蔵 北海道庁警防課編『防空監視隊服務綱領』
- 33.防空監視哨(しよう)と監視隊員(複製) 1943(昭和18)年頃 室蘭市役所編『新編室蘭市史』
- 34.北海道空襲 被災地と犠牲者 山本竜也著『北海道空襲犠牲者名簿』(2011年)掲載図をもとに作成
- 35.空襲の日の日誌(複製) 1945(昭和20)年 当館所蔵 B50/79 船泊村役場『日誌 昭和二十年』
- 36.釧路空襲概況図(複製) 1945(昭和20)年 当館所蔵 第一復員省編『全国主要都市戦災概況図』
- 37.爆破された国鉄釧路工機部(複製) 1945(昭和20)年 釧路戦災記録会編『釧路空襲』
31. 36.
戦場へ
日中戦争が始まると、予備役兵や後備役兵の臨時召集があいつぎ、さらに戦争が長引くにつれて、訓練を受けていない者にまで召集令状(赤紙)が届くようになります。
北海道出身の軍人・軍属たちが送られた戦地は、北はソ連国境から南は南部ニューギニアまで広範な地域に及びます。彼らのうち戦死・戦病死した兵士は、満州事変以降で6万3千人あまり。特に部隊が全滅した沖縄戦では、1万人以上の道内出身兵士が戦死しました。
- 38.寄せ書き日章旗 昭和10年代 北海道博物館 所蔵
- 39.弾丸よけのお守り 千人針 昭和10年代 北海道博物館 所蔵
- 40.臨時召集令状(複製) 1941(昭和16)年 北海道博物館 所蔵 新日本婦人の会所蔵及び『釧路空襲』付録をもとに複製
- 41.幟(のぼり)をたてて入営を祝う人びと(複製) 昭和6~10年頃 原本所蔵 北海道博物館
- 42.負傷兵の処置法 1940(昭和15)年 兵書出版社編『衛生兵須知』
- 43.札幌駅前通りを行軍する応召軍人の出征風景(複製) 1937(昭和12)年頃 北海道庁編『支那事変銃後後援誌 第一編』
- 44.北鎮精鋭出征歌(複製) 1937(昭和12)年制定 『北海道庁公報』昭和12.8.24付
- 45.応召届 1944(昭和19)年 当館所蔵 A7-2/682 北海道庁後志支庁『庁員進退賞罰 昭和十九年』
44. 45.
終戦と千島
日本は、8月9日のソビエト連邦の参戦や原爆の投下により、14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、いわゆる終戦の詔書を発布します。翌15日に玉音放送で国民へその内容を伝え、日本は無条件降伏しここに終戦を迎えます。
しかし、ソ連は、日本が降伏してから3日後の8月18日の占守(しゆむしゆ)島侵攻を皮切りに次々と千島へ上陸し、9月5日までには島々はすべてソ連に占領されました。
その当時、歯舞群島をはじめ北方四島には約1万7千人の日本人が住んでいましたが、一部はシベリアに抑留され、それ以外はソ連の命令で1948(昭和23)年までに日本へ強制的に引きあげさせられてしまいました。
- 46.終戦の詔書(複製) 1945(昭和20)年 国立公文書館所蔵『大東亜戦争終結ニ関スル詔書』
- 47.終戦の日に書かれた学校日誌(複製) 1945(昭和20)年 当館所蔵 A50/617 恵庭村立松鶴国民学校『学校日誌 昭和二十年度』
- 48.ソ連軍侵攻に関する公文書 1945~46(昭和20~21)年 当館所蔵 A7-2/1231 北海道庁根室支庁『千島及離島ソ連軍進駐状況綴』
- ソ連軍上陸時の村の様子
- 留別(るべつ)村長からの通訳派遣要請
- ソ連の意向を伝える
- 占領1年後の択捉島
- 49.ソ連軍侵攻の経過 ボリス・スラヴィンスキー著『千島占領 一九四五年 夏』をもとに作成
48. 49.
北海道への進駐
日本はポツダム宣言の受諾により、米国を中心とした連合軍に占領されることとなり、軍の進駐は1945(昭和20)年8月28日から開始されました。
9月8日にはマッカーサー元帥が東京に入り、10月2日には連合国軍総司令部(GHQ)が設置され、日本の占領管理が始まります。
北海道への連合軍進駐は、10月4・5日に開始され、5日には接収された札幌逓信局局長室で日米代表による会談が開催されました。
当時、道民は進駐軍に対して漠然たる不安と恐怖を抱いていました。会談に出席した熊谷北海道庁長官は「十分な誠意を持って進駐軍を迎えてほしい」との談話を新聞に発表し、道民に呼びかけました。
しかし進駐軍が到着すると、懸念に反して規律正しい友好的な軍隊であり、進駐後一ヶ月ほどは事故らしい事故もありませんでした。
- 50.キャンプ・クロフォードにおける進駐軍(複製) 1948(昭和23)年 原本所蔵 札幌市公文書館
- 51.進駐軍と札幌の人びと(複製) 1949(昭和24)年以降 原本所蔵 札幌市公文書館
- 52.進駐軍に接収された建物(地図及び一覧表) 当館作成
- 53.道内各地への通訳配置に関する文書 1946(昭和21)年 当館所蔵 A7-1/1737 北海道庁長官官房秘書課『長官事務引継書 昭和二十一年二月』
- 54.連合国との渉外事務の手引き 1946(昭和21)年 当館所蔵 北海道庁長官官房渉外課『渉外月報』第1巻第1号・第2号
- 55.キャンプ・クロフォード 当館所蔵 A11-1/5249 北海道農務部畜産課『旧真駒内施設接収関係』
PROCUREMENT DEMAND(接収命令書)
真駒内畜産試験場接収の指令
真駒内畜産試験場の見取り図
52. 54.
引揚者を迎えて
終戦当時、外地には軍人と民間人あわせて660万人以上の邦人がいました。彼らの大半は1946(昭和21)年秋ころまでに復員や引揚げを終えますが、ソ連管理区域となった樺太・千島からの本格帰還は、同年12月に始まります。
北海道へは、特に樺太からの引揚者が大勢上陸しました。何世代にもわたって樺太で生活し、すでに内地に縁故者がいない場合が多く、彼らの再出発を支えることが北海道の大きな課題となりました。
- 56.待機を命じる樺太新聞(複製) 1945(昭和20)年 当館所蔵 『樺太新聞』昭和21.8.23付
- 57.引揚げ船の混雑(複製) 1945~1946(昭和20~21)年頃 引揚援護庁編『引揚援護の記録』
- 58.小梁川中尉の復員書類 1946(昭和21)年 当館所蔵 B0-4/4 小梁川忠士関係資料
- 59.引揚者に配給された日用品(複製) 1946(昭和21)年 A7-/1744北海道庁『参事会関係書類』
- 60.引揚者住宅の破損(複製) 1954(昭和29)年 当館所蔵 A11-2/4349 北海道檜山支庁『台風15号による罹災引揚者集団収容施設災害復旧関係書類綴』
56. 58.
戦後の緊急開拓
終戦後、外地からの引揚者と復員者で人口が急激に増えると、食糧危機と失業が深刻な問題となりました。政府は、全国で100万世帯を帰農させて開墾地を増やす計画を策定、その入植地として北海道の役割が大きく期待されます。
しかし、道内で新たに開墾する土地は自然条件の厳しい場所がほとんどで、資力の乏しい入植者には、その後長く開拓の苦労を強いることとなりました。
- 61.緊急開拓入植地の分布(複製) 1951(昭和26)年 当館所蔵 Ma-1/2149 北海道総合開発委員会編「北海道開拓地入植状況分布図」
- 62.緊急開拓の事業計画綴 1947(昭和22)年 当館所蔵 A11-2/3570 北海道後志支庁『緊急開拓事業承認』
- 63.開拓状況調 1949(昭和24)年 当館所蔵 北海道開拓部『団地別 開拓状況調』
- 64.火薬抜根(複製) 1946(昭和21)年 『北海道戦後開拓史 資料編』
- 65.開墾に挑む樺太からの引揚者(複製) 1950(昭和25)年 『北海道戦後開拓史 資料編』
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おわりに
周辺諸国や対戦相手、そして自国の人びとに、甚大な被害を与えた戦争は終わりました。
GHQは、日本を無謀な戦争に駆り立てた軍国主義と、それを支えた財閥や地主制などによる不平等、個人の尊厳を重視しない教育、上意下達の中央集権構造などを解体・再編することにより、自由で民主的な社会に改めようとしました。
そうした後押しもあって、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重・地方自治を柱とする日本国憲法が1946(昭和21)年に公布、翌年5月3日に施行され、農地改革、教育の民主化、地方自治なども進められました。現代の日本や北海道は、この民主化の上に成り立っています。
文書館は、社会のありようが記録された資料を将来に伝えることで、民主的社会の維持発展に寄与していきます。
- 66.新憲法施行に伴う庁令等の整理(複製) 1949(昭和24)年 当館所蔵 A11-1/5373 北海道総務部文書課『新憲法施行に伴う庁令等の整理 昭和二十二年より昭和二十四年』
- 67.新憲法音頭(複製) 1946~47(昭和21~22)年頃 当館所蔵 『道民奉公歌 ほか 』所収
- 68.自作農創設特別措置法関係書類(複製) 1949~54(昭和24~29)年 当館所蔵
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